2015年03月31日

 千里が丘に月落ちぬー落語大学の練習のコンセプト

 入部二日目でした。いつものように発声練習が終わって和室に駆け込みました。
「黙想」 実技学部長。沈黙。四階を駆け上がったので息が上がってます。舞台を前に一年年生、二年生、三年生が一列に並んでいます。四年生は?一人か二人だったでしょうか
「やめ。えっと、Sやってみ」 なんと私の名前が呼ばれたのです。落語を人の前で演じるのが初めて、練習も見てもらっていませんから、フリも何もわかりません。文字通り、まな板の上の鯉。
「はい」 ドキドキしながら舞台に上がりました。で、昨日何度もネタ繰りしたのが頼りで、詰まりながらなんとか「黙って飛んできた」と落ちにたどりつくことができました。
「批評。一年生」 学年順に批評するわけですが、その言葉のひどいこと。主たる言葉は「やる気がないならやめろ」です。後でわかったのですが二年生はとにかく厳しくくさす。三年生は半分はくさし、半分は褒める。四年生は褒めるという暗黙の約束があったのですね。そうとは知りませんしとにかくぼろくそに言われて、「すみません」と頭を下げるしかないのです。これは同輩であっても先輩であっても同じで決して無意味のに。しかし、入部した翌日に、とにかく最後まで演じたのは私だけだというので先輩方にこっそり褒めてもらいました。
 けれど、とにかくやってみる。最後までやりきるという気合のようなものが身についたように思います。
 これは落語大学にいいところですが、練習が終わったらもう落語の巧拙には触れないのです。先輩が「めし、食べに行こか」と言えば「ごっつぁんです」と後を付いて行けばご馳走にありつけました。一年生の間、昼ごはんは自分のお金で食べた記憶がありません。
 よく食べに行ったのは正門通りにあった「千成」でご主人やおばさんには「落大さん、落大さん」と可愛がっていただいたものです。今、「千成」はなくなり(場所が変わっているかも)寂しい限りです。
 五月の半ばでしょうか、新入生歓迎コンパがありました。これは落語大学の[入学式]です。新入部員が正式に入部を許され、名前をもらえるのです。場所は千成の二階。メニューはすき焼きと決まっていました。私たち一年生は会費は不要でした。
 入学式でもらった名前が「関大亭忍狂」だったのです。

  


Posted by 彦八 at 22:24Comments(0)

2015年03月30日

 ああ、落語会

 落語大学の思い出話を聞いて貰っているので、落語会のことはページをあらためて書くことにします。

3月26日は日高川町で落語を聞いていただきました。日高川町は江戸時代に活躍した芳沢あやめという歌舞伎役者が出たところだそうです。住民の方の陶芸やカラオケなど文化的な学びの場をあやめ学園」と名付けて活動されて、その閉講式に最後の講師として呼んでいただいたのです。中味は「お楽しみ落語会」です。昨年に引き続いて二度目でした。40名以上の方々がお集まりでした。皆さん文化活動をされているせいか気持ちに余裕があってよく聞いていただきました。昨年のことを覚えておいでの方もおられて大そういい日を過ごすことができました。ありがとうございました。
 3月29日は大阪のコムリバというレンタルスペースで落語大学時代の同輩、千里家ばっ太が音頭取りの寄席があって出してもらいました。「火焔太鼓」を聞いてもらいました。天神亭志ん香さんも来ていて、彼女は学生時代の友人で、長らく無沙汰をしていましたが今になって一緒に落語会ができるなんていいなぁと思いました。  


Posted by 彦八 at 21:49Comments(0)

2015年03月30日

千里が丘に月落ちぬー落語大学の恐怖の練習会

 入部したその日は下宿の部屋で早速、必修ネタ「つる」を何度も何度も繰り返し声に出しました。面白いとは思いませんでしたが、「落語の世界とはこんなんかぁ。これからこんなことをして行くのやなぁ」とまあ、自分としてのやること、進む方向が決まったのです。で、翌日は昼前に部室に行ったら例の力丸とも一人手足の長い、ひょっこりひょうたん島の博士によく似た男が待っていました。
「これから四階和室の準備するから」というので付いて行きました。二十畳くらいの広さで、前の方に座り机を二つ縦に並べて、その上に赤い毛布をかぶせます。座布団を敷いて、膝隠し、見台を載せて出来上がり。
「発声に行く」というので付いて行きますと、体育館と野球場の間の道にこちらに一年生、向かいに先輩が並びます。二年生の先輩が「腹式呼吸や」と言って、腹に手を当てて発声のやり方を教えてくれました。発声は単発と長発の二種類があって、一年生部員が、(あっ・いっ・うっ…)と声出したら先輩が続けて声を出すのです。びっくりしたのは発声が終わった途端、皆が一斉に和室目指して走りは出したのです。一年生が先輩より遅くなったら大変でした。練習の後どんな小言を喰らうか。無論、一年生の指導係は二年生の役割で、ほんと小言を言われない日はありませんでした。
 ずっと最近のことですがある素人落語の会に入っていたことがありました。そこで、「発声練習はしないのですか」と聞いたら「落語で発声練習するかいなぁ」と笑われたことがありました。しかし、声は大切です。原から声を出すのはまあ、話芸では基本です。発声練習を初めて経験してたのは四十年以上も昔のことですが、未だに少々広い会場でもマイクは不要です。で、駆け込んだ和室でとんでもないことが起こったのです。  


Posted by 彦八 at 21:32Comments(0)

2015年03月28日

千里が丘に月落ちぬー 落語大学に入りました。

 特別講堂は。
標高10メートル程のこんもりした丘を掘って作っていて、戦争中は要塞として使われていたと説明されたら、そうですかと信じてしまいそうな建物で、入り口は狭くて暗くてそれこそ要塞の入口もこんなだろうと思われた。入学当初は演劇クラブにでも入るつもりだったので「落語クラブ」僕の中では二番手だった。入口には、それから長い間着ることになる青い法被姿の部員が愛想よく出迎えてくれた。
 プログラムは
 ○寄合酒       爪田家奈酒
 ○くしゃみ講釈    爪田家酔笑
 ○いらちの愛宕参り  浪漫亭九都
  中入り お笑い大学ただいま授業中
 ○代書屋       爪田家しぶき
 ○はてなの茶碗   爪田家しぐれ
 二番と四番は反対かも?
 
生で聞く上方落語は初めてで堅い座席で一人大笑いした。午後の講義は当然キャンセル。こんな面白い世界があったのかと翌日、早速部室に行ったのだが、これが実はえらいところだたのでございます。誠之館と書いて「せいしかん」三階の部室を訪ねた。昼を過ぎたころで中は畳三畳に土間があった。私がノックして入ったら髪を七三に分けた男が木の台(見台だと後で知った)を前にして大きな声で何やら喋っていた。落語の練習をしていたのだ。
「ここに名前を書いて」 その男が入部願い書を指差した。私は自分の学部と住所、氏名を書いた。
「練習は、毎日昼の12時10分から。遅れたらアカン。一年生は当番制で部室の掃除をすることになっている。朝いちばんに来るようになぁ。それと練習会場は四階和室やから。準備もあるよって授業がなかったら、11時に部室集合」というとおもむろに、
「これ必修ネタの『つる』覚えてこなあかん」
 ええ、これ全部覚えるん?私は更紙に印刷したネタ本を見た。10ページはある。男が時間にして15分程あるという。こんなもん急に覚えられるかなと思った。だいたい「つる」というネタは聞いたことがないのだから。それでも、
「皆の前でやらされるから、覚えなあかん」と言われたので、
「はい」と言って部室を出た。
 さて、こまごま教えてくれた七三に分けた男だが実は私より二日ほど先に入部した一年生と知ったのは翌日だった。関大亭力丸で私たち一年生部員の間で評判が悪くて半年ほどで退部したというより、私たちが退部勧告を出したのだった。今から思えばクラブという狭い世界で寛容さを失くしていたのだろうか?その後も酔扇という男にも退部勧告を突き付けた。
 集団力学が働いたのだろうし、落語大学は許容範囲が極端なクラブで、楽しく落語をしたというようなものは(不埒な輩)として離れるしかなかったのである。時代と言えば時代だし、今から思えば悲しくなるほど懐かしい空気に満ちているのだった。
 私は5人目の新入部員だった。





  


Posted by 彦八 at 20:19Comments(0)

2015年03月27日

千里が丘に月落ちぬー落語大学?なんやそれ。

 さて私が大学に入ったのは昭和47年、西暦1972年。1968年は東大安田講堂で機動隊と学生が激しくぶつかり権力の前に敗北した歴史のターニングポイント。それから4年後、私は大学生となった。
 五月になって学生生活に慣れたころ、同郷のMと下宿の部屋で、
「やっぱり共産党に入って政治活動をするのが今の俺たちの役目や」
 高校時代のMの思想がどんなであったか私は知らないが、あの頃の私たちにとって政治を語るのはごく日常のありふれた風景だったのだ。学生協の書籍部の棚に並んでいるのは、吉本隆明であり高橋和己で、北朝鮮の金日成の思想本があって、共産主義社会はバラ色の楽園だったのだ。私の部屋は学生寮の屋上に後から建て増した部屋で上から見たら台形だったが、窓の外には千里の町が広がっていた。電気ポットがカタカタ鳴って白い蒸気を部屋に吐き出していた。
 僕だけじゃなくて四月に入学した学生の多くは、みんな僕たちと一緒で政治に一歩足を踏み出そうか迷っていたのだ。
 僕はその場にとどまり、Mは政治の世界に入ったのだった。僕たちには右か左、行くかとどまるか、二つの道しかなかったのだ。
 僕は僕の落ち着く場所を探して学内を彷徨っていた。5月の初めころだった。「はいっ」と渡されたチラシを見たら「特別講堂」で「落語大学」の「新入生歓迎公演」があると書いてあった。友人もなく一人でフラフラと特別講堂に行ったのだ。思えばこれが落語いや落語大学との出会いだったのだ。(続く)  


Posted by 彦八 at 21:54Comments(0)

2015年03月26日

 実は私、神経症でした。その2.

 神経症との付き合い一年半ほどでした。その間、乗り物にはまるで乗れなかった。大阪から和歌山に帰るのにも各駅停車でしかも時々下車する始末。とにかく閉塞感に押しつぶされて他にしようがなかったのです。当時、名古屋のOB主催の落語会がありました。まあ、新幹線で冷や汗をかきながら行きました。落語は何をやったか覚えていませんがとにかく異様に弾けたことは確かで、たいそう受けましたよ。
 落語をやっている時だけは救われた、安心できたんです。けれど、なかなか完治はしないままでした。今になって思うのは神経症は結局、時間です。とにかく台風みたいに通りすぎるのを待つしかないのです。もう一つは、薬で症状を抑え込むことは必要ではありましょうが、カウンセリングなどを受けて自分の心の問題点に向き合うことですし、神経症は向き合って自己の本質的な問題点を洗いなおすチャンスなんです。それをしなかったものだから、神経症は私に付きまとい、突然ひょっこり顔を出し続けました。  


Posted by 彦八 at 23:09Comments(0)

2015年03月25日

実は私、神経症でした。

 若いころ神経症を患った。症状は底なしの不安感。ある夜、精神安定剤を酒で飲んだら、部屋の隅にサイケデリックなお亀の面が現れてきらりきらりと輝いた。こりゃアカンと思ったね。夢じゃないのだから。あわてて、友人のお父さん(開業医)の紹介で京都のはずれにあった、精神神経科医院に看てもらいに行った。そのお医者さん、禿頭で黒い眼鏡をかけて、蝶ネクタイを締めていた。ジロッと私を見て、「どうしました」「あの、とにかく不安で、現実感が無くて、不眠で・・・」「そうですか」とジロッ。話は聞いて貰えないで、タイプライターをカチャカチャ打つばかりだった。どっさり飲み薬をもらって帰ったが、あまり信頼はできなくて2,3回で通院をやめた。 
 これは落語が私から遠く離れていたころだ。  


Posted by 彦八 at 20:29Comments(0)

2015年03月24日

私小説「千里が丘に月落ちぬ-始まり始まり~

 まずは「坐・噺の会」会員の出没注意情報。熊やがな。icon24
 3月26日:あやめ学園閉講式
        日高川町文化センター
 3月29日:コムリバ寄席
        大阪レンタルスペース「コムリバ」

 続いては、連載小説「座布団の上に春が来る(仮題)」
 果たして「坐。噺の会」がどうしてできたのか、どんな連中がどんな考えで(考えがあったとして)立ち上げたのか?
 長々書くのも疲れるし、読んでいただくのも疲れるので毎回100字前後の私小説にしました。本日は記念すべき第一回目と相成ります。ポポンガポン。
   一
 今日、嫁はんがシミジミ言いよった。
「昔、世話になった佼成会の支部長さんがあんたの顔をみて『お宅のご主人、天邪鬼やな』というてた。あの時いうたら怒るやろから言わなんだ。今なら言えるわ」
 天邪鬼、今なら言えるというのは、嫁はんにしたら褒め言葉らしいのよ。テレビで米団治が亡くなった米朝さんを評して天邪鬼やったと言うてはったのを引いてきて、私のことを天邪鬼と言うのであるから褒め言葉で悪い気がしないでもなかった。
 というのも、時折、精神具合を点検する必要があってカウンセリングを受けている。嫁はんとのごたごたが原因で今回も「あんたがカウンセリングを受けてちゃんとした人間になる言うのやったら、この家にいててもええ」問うので、やむなくでもあるし、そろそろ行った方がいいかと思っていたところだった。
 二回にわたって子供の頃の家庭環境やら自身のふがいなさを、たとえば極度な緊張感があって一種の人間恐怖症的なところがあることをグチャグチャカウンセラーの先生に聞いて貰った。で、一回目で大人になりきれていない自分を感じて、二回目で肩ひじ張っている自分を感じて、その思いを脱いで「なんや自分はそれほど人さんに評価されるほどの人間でないし、そうなる必要もないのやから、本来のチャランポランの人間でええやん」というのが腹にスコンと落ちたら肩の力が抜けたのだった。
 (続く)
 
 

  


Posted by 彦八 at 21:56Comments(0)

2015年03月23日

米朝さんの落語は「超落語」

 米朝さんが亡くなった。テレビで昨日は「本能寺」、今日は「どうらんの幸助」を聞いた。読売新聞に山折哲夫氏が米朝さんの落語を「一人芝居」と書いていた。演劇でいう一人芝居は登場人物が一人で、俳優はその人物だけを演じるのだが、その点、落語は一人で複数の登場人物を演じなければならないから「落語」は「一人芝居」やないと思っていた。が、改めて米朝さんの噺を聞いたら「なるほど一人芝居や」と納得した。演劇でいう一人芝居やなくて一人で何人もの人間を登場させて一つの物語世界を作り上げるということで「一人芝居」。
いわゆる落語の話法と米朝さんの話法は違うなぁ、ということです。 ひょっとしたら米朝さんの落語はいわゆる落語じゃなくて「超落語」(説明できませんが)としか言えません。
 皆さん、どう思われますか?
 今日は半日、農作業に没頭しました。
 (にんきょう)  


Posted by 彦八 at 21:39Comments(0)

2015年03月22日

黒江ぬりもの館「ひるさがり亭・3月公演」

 本日は黒江ぬりもの館の三月「ひるさがり亭」の日。昨日は湯浅で落語会があったので二日続きだ。朝は8時半に起きてると、舞台道具を軽トラに積みこんで出発。舞台装置一切を預かっているので私の仕事になっている。
 会場近くの駐車場で道具を荷車に乗せてゴロゴロ運んでいく。輪っかが小さくて運びにくい。今回から照明を変えた。一気に2900円のを二つ買ったのだ。以前はお盆の回り灯籠を使っていたので、組み立てやら反射に白い紙をテープで着けるのに手間が係った。梅紅さんが早速2900円の威力を確かめている。「私、きれいに見える?」「はい、もちろん」「ああ、そう」照明が照明としてどれほどの効果があったのか?いえ、梅紅さんをきれいに見せたかというのではありません。
 準備万端となって、梅紅さんは着替え。女性は着付けに時間がかかりますので。化粧もするし大変なんですね。男二人はいつものように取り留めもないバカ話でして、これが実に豊かな時間なんですね。心身のコンディションつくりに本当に役に立つんです。芝居だったらこうはいきませんよ。体操して発声をしてということになるんですが、落語前に準備体操や発声をするものだろうか。春団治さんが体操して発声しているなんて想像もできませんよね。すくなくても私たちはしません。無論、学生の頃は練習前には毎日発声をしたものですが。
 さて、本日の出演は萬年さん、梅紅さん、そして私、忍狂の三人だけでした。他の出演者が無いので、ゆっくり長い話を聞いてもらえるという利点がある。それに、素人落語では5席が限度じゃないでしょうか。ぬりもの館では4席を目途にして、5席の時は中トリ、トリの他は20分程度の短いネタをと心がけているし、演者もそのつもりになってくれている。
 トップは和歌亭萬年さんの「茶漬け間男」
 やや、艶笑噺で枕の小咄からその方向で高座が進みました。客席に笑いが広がります。今日もお客さんです。
 二番手は天神堂梅紅さんのシネマ講談「無法松の一生」
 昨日の湯浅ではいまいちの出来でしたが、本日はスムーズに話が運んでいました。終演後お客さんが梅紅さんに「映画を彷彿とさせてくれました」なんて言葉をかけてくれてました。梅紅さん曰く「喋りが下手でも、聞いてくれる人が昔を思い出して懐かしんでくれる切っ掛けになったらいい」と。確かにそうだと思いました。
 ラストは私、関大亭忍狂「景清」
 これで今シーズン四回目だが、出来が段々悪くなっていくような気がします。やりこんでやりこんで仕上げていくタイプではなく鮮度が命であるので、自分の中で鮮度が落ちてくると出来が悪くなってしまうという癖がある。これは大いに反省しなければならない。
 終わって、カフェでぜんざいを食べて帰りました。 
    
 



  


Posted by 彦八 at 23:10Comments(1)